Richmond, Virginia
僕のAFSイヤー:失敗再訪の試み
小学校6年の臨海学校で、夕方の太平洋を眺めているうち〈海の彼方〉のアメリカを、なぜか強く意識した。前思春期的感傷のようなものに襲われて、僕はいつかアメリカに行く、と強く思った。もちろん何も知らない国だし、英語も学んだことがない。〈アメリカ〉は霞んだ雲に隠れた神秘だったが、それが僕を呼んでいた。
思いを膨らませるのに「時代」が味方した。僕の想像のキャンパスには、(担当芹沢栄先生、お相手はクレメンツ先生の)ラジオ講座も、プレ五輪の金髪選手の映像も吸い込まれた。学校の教科書が "Please, please, listen to me." に進んだころには、ビートルズの "Please Please Me" も聞こえていた。ミニスカート、サイケデリック、北爆・暴動・暗殺……。AFSを受験するころまでに僕は、hip だの square だの盛んに口にしていた。
ホスト・ファミリーに引き取られて間もなく、初めて入ったレコード店で、 Mothers of Invention のレコードの本物を見つけて、どうしても欲しくて買った。そして、そして歌詞の意味が分からないまま、居間のターンテーブルに載せた。七年生の女の子と五年生の男の子のいる前で。その時初めて、僕が勝手に膨らませてきた〈アメリカ〉は、アメリカの現実とは違うのだと知った。
* * *
そこは旧南部連盟の首都、バージニア州リッチモンドの西の郊外。「反ヤンキー」の意識の消えない場所柄だった。通った The Collegiate Schools は、Boys School と Gilrs School が隣り合わせになった、男女それぞれ1学年40人ほどの私立高。初等部も中等部もあって、誰もが誰もをよく知っている。旧南部の誇りを持った人たちが、"Southern hospitality" をもって接してくれる、かなり濃密なソサエティのゲストとして、僕は迎えられたのだった。
フレイジャー家は学校から、河沿いの緑の道を4マイルほどくねくねと行った先の、"James River Estates" という広々とした宅地にあった。通学路の大きな木々は、カーラジオから"Those Were the Days" が盛んに流れる頃には、落葉もたけなわとなった。黄色いフォード・フェアレーンのハンドルを握る Bob Ramsey は実の父を朝鮮戦争で亡くしていた(Mr. Frazier は、いわば二人目の男の子を、今度は妻と二人して、adopt したということになる)。
Bob は Key Club (キワニスクラブのジュニア版)の学校代表、そして4つの学校合同のダンス委員会の学校代表。そんな彼の、3つめのプロジェクトが AFSコミッティーのホスト・ブラザー役だったと言える。僕に求められるのは、進んでアメリカに飛び込んでくるヤンチャ坊主の役どころで、それは、こっちとしても望むところだった。学校の"Big Wheel”と、想像ばかり逞しい日本人、二人がある意味がっちり組み合って、悲喜劇が始まる。
"Aki, get a date for Friday night. We're going to . . . " これが毎週、火曜日くらいになると降り掛かってきた宿題だった。最初は「もの珍しさ」も味方したのか、ガールズの反応は悪くなかった。でも、結局、僕にふりまくべきどんな魅力があっただろう――自分がアメリカナイズされている証拠がほしくて、戸口のキスをねだるような子に。それならむしろ、引っ込み思案の読書家みたいな方が、女の子から見てマシだったかもしれない。それでも僕は、体育会系少年の根性で毎週電話にしがみつき、エリアコードの違うフレージャー家の電話請求書の額を跳ね上げた。"Bob, you go out have your fun. I'll stay home and do my thing, OK?" ――これが言えなかった。そういう「知恵」は〈アメリカ〉からの「逃げ」のような気がしていた。不合理で、ちょっと破壊的でもあるけれど、熱気と葛藤に覆われたその不合理こそが青春なのだと、今は思える。
Our Gang, the Key Club: President Bob Ramsey の肩に手を置いているのが "Sweetheart" の Franny Simpson, 隣が名誉会員の Aki Sato
二時間目のスタディーホールは、senior privilege で廊下のソファで読書をしていると、Boys school へラテン語を受けに来た女子三人が通る。その一人が、AFS支部長の Mrs. Moore の娘さんで、最初のダンスのデートで、僕が夢中になってしまった Joan 。皮肉なことに、この頃では、Bob のデートになって、同じ車の前の席に座ることが多くなった。僕のデートを届けた後で、二人で消えることもあった。
学校は言うまでもなくキツかったけれども、理解できる科目は、英語自体に慣れてくれば当たり前のように理解でき、手に負えない、たとえば米文学の授業は、Huckleberry Finn のような口語スタイルのもの以外は、まるで手に負えなかった。米国史は、一生懸命やれば何とかなるという中間領域にあって、きっと最初は頑張ったのだろう、年が改まることには、B、ときにはB+も取るようになっていた。B+が取れたとき、ふっと気が抜けた。夜半過ぎまで頑張って、自分は何を証明しようとしてるんだろう? とにかく勉強はがんばるもの、という気持ちも、おそらくそのとき抜け落ちたらしい。
スポーツではみっともない思いをしていた。日本では、恵まれない運動神経でバスケットに励んでいる、おっとりした秀才君、みたいな自己イメージを売りにしていたのだが、調子が狂った。まずこちらでは、スクールチームを目指す力がそもそもない。特別配慮で、JV(junior varsity)に入れてもらったものの、モティベーションは上がらず、年下のプレーヤーの成長につれて出場時間も減っていった。
かくして僕のがんばりは、「真のアメリカ体験」という亡霊に集中するようになったのである。
Bob のリードする週末ライフは、dating 以外は、ガキたちによる goofing という形をとった。必需要素は、ポケットにピタリ収まる軽金属製の水筒と、リカーショップの客になれる年齢の知り合い。あとは、説明するまでもないだろう。カリフォルニアなどでは pot が問題になっていたころ。旧来の男子友愛会的な集まりがここにはあった。その「男の結束」がピューリタニズムと交わるところに、独特なダブル・スタンダードが生まれる。禁酒法の時代に、スピークイージーという隠れ酒場が栄えた不思議は、"dry state" と呼ばれて規制の厳しかったバージニアの未成年社会にも生きていたのだ。週末の午前1時、Bob と僕は、匂い消しのガムを噛みながら、家のキッチンの戸を開けた。
もちろん、大人たちは知っていた。大晦日のパーティは、我が家で開かれたのだが、弟と妹は、「このドアを開けて入ってきてはダメ」と言われる訳をちゃんと知っていた。このパーティでは、ジュニアクラスの Tommy Moore も酔いつぶれ、翌日AFS支部長のMrs. Moore から謝罪の電話があったと聞いている。
この学校にはイースター休暇に、シニア有志がナッソー(バハマ諸島の)の旅に出かける恒例があった。誰がどのようにハメを外したかなどの「伝説」も残る、AFSチャプターの人からすればとても勧められないトリップなのだが、「経験」に貪欲だった僕は、こちらのペアレンツの気持ちを考える余裕もなく、日本の親元に220ドルを無心した。返事が否定的で、すぐに諦めはしたが、ややこしいことに、それを聞いた近所の奥さんがやってきて、その額面の小切手をポンと置いて帰ったという。さすがに「これはいただけません」と返しに行ったのだが、僕の "かわいい" 英語運用能力で、事を覆せるわけもなかった。
ナッソーにはカジノがあり、ホテルにはバルコニーとラム酒があった。そのバルコニーで僕は歌いだし、酔いつぶれるまで、歌い続けた。「行状」は他にもあって、翌日僕は、まったく記憶のないことで、女の子の部屋を2つ3つ謝罪して回ることになった。
でも、そこまでは、許容範囲内だった。悪いことに、スイスから来ていた Girls School のAFS生が、ある学校のAFSデーでのスピーチで、この日の僕のことを「楽しかった一年間の思い出」として、全校生徒の前で披露してしまったのだ。
名を重んじる南部私立高の、ゲスト留学生二人による大失態。校長は "You degraded our school." という言い方をした。相手の学校も、AFSチャプターも含め、地域全体があわてふためいたことだろう。それでも、見かけ上、事態は平穏に進んだ。僕は相変わらず大事にされ、Bob の始めたジャグバンドでは washboard(洗濯板を指先のthimbles で擦る)を担当した。Dad は一年の最後にひと言だけ、"You got so Americanized you forgot how to work."とだけ苦言を呈したが、それを聞いて、一年のガンバリが報われたように感じるほど、自分はねじ曲がっていた。
卒業式の翌週末、同級生と一緒にバージニア・ビーチへ繰り出した。週末から次の週末にかけての、8日に及ぶ滞在で、その間、靴を見失った僕は裸足でふらついていた。その放浪感は甘美だった。Bob にとっても一年の憂さを晴らすとき。ここでの Aki の面倒見は、最初から放り投げていた。
裸足で店に入れてもらえず、昼飯を食いっぱぐれた僕を、Tommy Chamoris が海辺のコテッジに招き入れた。マヨネーズを塗りたくった2枚のパンにボローニャとレタスを挟み、さらに辛子をべったり塗りたくった"Tommy Chamoris Special" を作ってくれた。彼は昨年、別な高校から大学進学ができず、フットボールの奨学金で、うちの高校で四年目をやっているのは知っていた。帰り道のビーチで Joan に会った。Tommy は結局大学進学がままならず、Base Quantico の海兵隊基地に行くことになったらしい、とそのとき聞いた。そう言われてもイメージは浮かばなかったが、例の映画 『Full Metal Jacket』 で有名になった、あの訓練基地のことである。きっとそのままベトナムに行ったのだろう。灰青色の瞳を持つ、クールで優しいやつだった。
夕方の海を見ていたら、なんだかチクショーという気持ちがこみ上げてきた。もうすぐ日本に帰らなくてはならないのが口惜い。日本の友達からも手紙は来て、パーになった東大受験のこととかいろいろ書いてあったけれど、まるで反応できなかった。帰国後自分が"東大合格圏" に戻れるかどうかなど、どうでもよかった。僕の最後のプライドは、過ちと失望の連続だったこのアメリカにある。勉強なんかより絶対価値のあることでがんばったつもりだ。でもそれは、他人目には、余計なことでしかなく、日本に帰って役立つものでもない。大西洋の彼方を眺めた。7年前の臨海学校のときと違って、海の彼方に戻るべき日本は見えなかった。
* * *
以上が僕のAFSストーリーである。一つ、大事な告白が済んでいなかったので、少々の延長を乞う。
夕方の海を眺めて、ストリートに上がった僕は、近寄ってくる Mary Lynn の姿に気づいた。TJ校で、「酔っぱらいAFS生」に関心を抱き、親しく話しかけてきた女の子である。一度デートもした。そのときは下級生の友達にダブルを頼んだ。
彼女は、ローワーミドルの、小さな家々が並ぶ界隈に住んでいた。僕たちの車を見かけると、玄関の網戸のところで、後ろを振り返り――きっと奥でテレビを見ていた父親か誰かにだろう――"See ya."とひと言言ってステップを降りてきた。これが僕には新鮮だった。ドアのチャイムを鳴らすとまず親が出てきて、世間話をしているうちに、二階でシャワーとブローをすませた彼女が階段を降りてくる……という形式はここにはない。ニコヤカに門限を言い渡される儀式もない。僕はこのとき、Collegiate のソサエティとは違う、別のアメリカを垣間見た。行った先は映画館だったか、とにかくどこかのホールで、Mary Lynn の男友達に会った。その大学生のアパートには、例の紫色の蛍光ライトが光っていた。レコードもサイケデリック。まるで自分のために用意されたかのような展開に、時の経つのを忘れた。その時間、リッチな郊外のフレージャー家は遠かった。午前二時半、戻ると "母" は消防署に電話しているところだった。"Sorry I'm a little late." としか言えなかった僕に 彼女は感情的になりかけたが抑え、翌朝気を使って、"Did you have a good time last night?" と聞いてくれた。
さてビーチの晩の夜8時、彼女はすでに暗くなったビーチの、人目につきにくいところに何人かで腰を下ろして僕を待っていた。誰かがビーチの砂の中からウォッカを掘り出してきた。浜辺で夜風を浴びながら、僕は無責任にも、解放された自分を感じていた。「アメリカの僕」は相当こんがらがった存在になっていた。幼児が etch-a-sketch に描きなぐったみたいなグチャグチャの自分が、"行きずりの" 他校生と飲んでいるうちに、まっさらに戻って行く……。ある時点で、Mary Lynn に言われてタバコを買いに通りに上がった。販売機の前で、ふらついて見知らぬタバコを持ち帰った。気がついたら深夜だった。シャペローンの女教師(だと思う)が出てきて喚いていた。うちの学校のAFSデイを、ふざけた会にした本人が、今度はうちの子たちの間に来て、いったい何をしているんだ。police という言葉も聞こえた。パブリックな空間での飲酒は、それだけで法に触れる。
そう綴りながらも、今は亡き"母" のことを思わずにはいられな
い。2度目のビーチの失敗談も、すぐに伝わってきただろう。
どんな「動き」があったにせよ、僕が気づくことはなかった。
"母" のようすにも変わったところは見えかった。タバコとコー
ヒーは過剰摂取気味だったけれど、一年を通して、微笑みをも
って僕を励ましてくれていた。AFS関係のさよならパーティも
楽しく執り行われ、僕は無邪気に友に送られバス・トリップに
出発した。
Aki が帰った後、翌々年からだけど、AFS 生はもうしばらく
取らないことになったんだ、とBob から聞かされたのは、12年
後に初めてリッチモンドを再訪したときのことである。
僕の犯した「失敗」の根本原因は、〈アメリカ〉との無鉄砲
な自己同一にある。でもそれは、どうにかできたことだったろ
うか。その後僕は、現実のアメリカと帳尻を合わせながらも、
基本的には幻想の−−と言って悪ければ「理論上の」−−〈ア
メリカ〉を、文章にしたり、学生のまえで喋ったりすること生
業とした。アメリカについての思いを遠いキャンバスに投影、
そこに没入していくというスタイルは、10代のときから結局
変わっていない。
この文章を書いてから、こんな切り抜きが見つ
かった。ボールペンは"母"の字。地元のカウ
ンティの新聞を送ってくれていたのだ。
かった。ボールペンは"母"の字。地元のカウ
ンティの新聞を送ってくれていたのだ。
つまり、もし自分の人生になにがしかの栄光 (triumph) があるとすれば、その根っこは、18歳のときの失敗の根っことまったく同一なのである。そのことを、今回の手記を書くために何十年ぶりかで封印を解いた日記を読みながら知ったというわけだ。その愚かな若者は、盲目な一生懸命さの中で、自分を本気で愛してくれた人たちを苛立たせ、傷つけている。それを知ることは、今なお心痛むことではある。でも、まあ「よくある話」でもあるのだろう。AFSはみんながただ各々の職務や課題を果たしていくだけの場ではない。文化を越えて、心と心をすり合わせる以上、傷つくリスクは誰でもいつでも負っている。だからこそ成長がある。だからこそ人生を作りうる。
これで、デートの約束を取り付けろというのだろう。でも電話をする必要はなくて、学校で約束することができた。
"Arranged Marriage"制度の普及していない米国では、自力で結婚相手を
探さなくてはならず、その訓練の過程ではないかと考えた。
それにしても、相当異なる生活を送っていたのですね。